昭和49年07月31日 夏期信行成就御礼会



 今日無事に成就のおかげを頂きまして、今日をもって成就になるのですから、少し暑いですけれども矢張りその辛抱、そして最後にここでは毎年おそばを頂く事になってます。もう信心に修行は付き物。その修行におかげは付き物と言われます。いわゆるおかげも側と言う様な意味でお蕎麦を頂くんです。どうぞお蕎麦を頂くまで、おかげを頂いて頂たいと思います。
 夏期信行が始まるに当たりまして、あの神様が向こうの障子を取り払えと言う事を頂きました。そしたらやっぱりあのここも一杯ですし、それから向こうの方まで一杯の人達が、もう揺るぎのない勢いで今日まで、信心修行が続けられたと言う事を大変有り難いと。神様もまたお喜び、お心強い思いをなさった事だと私は思います。そして皆さんに掛けられる所の神様の願い。
 先ほど信徒会長、秋永先生がお話ししておりました、もう私の言いたい事、私の思っておる事ままで御座いますけれども、それをもう少し具体的に、もう少し分かりよく聞いて頂きたいんですけど、ただ今久富正昭先生がお話を致して居りましたがですね。あそこのお話しの中にもう一つ、合楽に御神縁を頂いて只ならにこういう時期に、言わば千歳一隅の時期に合楽に縁を頂いておったと言う事の有り難さと言う事。
 幸せを感じると言う事と同時に、私はその責任を一人一人が感じなければ、所謂合楽を現すと言う事にはならないと思うのです。本当に合楽に御神縁を頂いておったと言う事だけでは極楽ですね。ですから極楽のおかげを頂いておると言う事だけではなくて、それが合楽に繋がらなければね、お商売人であるならば、お客さんも喜んで下さる、私共も儲かるね。家内が拝むなら主人も拝む。親と子が本当に仲良う睦まじゅうおかげを頂いて、お礼を言い合うて行けれる世界ね。
 神様、氏子がおってか例えば、高橋定利おってくれてねまあ言うならば、神が世に出たとまでは行かんでもね、合楽がこの様におかげを頂いておると、言うなら神様から一礼と申される程しのおかげを持って合楽を現すと言う事だと思うのです。昨夜私は12時御祈念が終って、両親の部屋に参りました。明りが付いておりますから参りましたら、戸をこうかすかに障子ごしに父の大祓いを挙げておる声が聞こえます。
 とこう覗いて見ましたら、もう母はグッスリもう横になって寝ておりましたけれども、父は御神前で一生懸命大祓いを奏上しておりました。それで私はちょっと躊躇致しまして暫く待たして頂いておりましたら、私が廊下に立っておる事に気付いた様で辞めました。それで私が入りましたら、私に今日はおかげを頂いて、御霊様達がお喜びだっただろうと言うて、あのお礼を言うてくれました。
 それは例えばもう、二人とも90からで御座いますからね、もういくら強いおかげを頂いておると言うても、やはり自分の前からいやあ、自分達が先にお国替えのおかげを頂いて、御霊の世界に入って行かなければならないけれども、もう御霊の世界には合楽という極楽が待ち受けておるから楽しいね。合楽の世界にあの世でも住めれる。そう言う物が言葉には申しませんけれども、自分達が例えば、亡くなっても今日お広前で親戚中、そして幹部総代さん方が集まられてのあの盛大な。
 しかも有り難いお祭りを拝ませて頂くに付けても、是は愈々有り難い事に成って来るぞ。私達が例えば亡くなっても、あの様なお祭りを何時も受ける事が出来る。言わば極楽のおかげを愈々極楽としてね、この世あの世を通して頂けれると言う事はなんと幸せなものであろうかと言う物がです、私は御神前にしみじみと御祈念をしておる父の姿からそう言う物を感じさせて頂きました。
 私ね信心の根本はねここからなんです。先祖が助かるね。親が助かる、子供が助かるね。所謂、家の中に神前美を現すと言う事ね。嘘のない真の世界が、真実の世界が、駆け引きのない世界がね。言うならば悪ではない善の心の覆い尽くした雰囲気と心と家庭の状況と言う物。そこにはです、おのずと麗しい世界が開けて来る。神前美の世界をね、揃えてのおかげ。足ろうたおかげに成って来なければならない。
 今日の修行しゅうりょうのお届けを聞いてお届けをさせて頂いておりましたら、神様からこう頂きました。世界の将来、人間の行くて、人間の行くてです。世界の、それこそ今世界中がですね、それこそ、思うただけでも身が凍る様な思いをする様な事ばかりが地球上には起こっております。言うならそれを、地球の危機と言うております。もう、本当に悠長な事は出来ない。
 そこにです合楽が25年ぶり、沈黙を破ってそして、合楽を現すと言う事に全身全霊を傾けて、世界総人類の言うなら和賀心時代を創って行くと言う事の上にお役に使うて頂けれると言う事を幸せ、有り難いと感じれれる信心にならなければなりません。ただ合楽理念を頂いておると言う事が有り難いと言う事だけではなくて、秋永先生が色々と現在合楽の状態を話しておられましたが、もっとあれを分りやすく言うならばです。
 25年間沈黙を守った。と言うのは、どんなに人が助かっても、どんなに沢山のお参りがあっても、その参っておる人達に合楽を現せの、合楽を宣伝せよのとは一言も言うて来なかったと言う事、事実でありますね。そしてそれが蓋を開けて、言うなら沈黙を、言うなら破っての事になりましたら、口を開ければ合楽宣伝と言う事が使われます。しかももう言うなら、秋永先生の話しを分りやすく言うと。
 先日末永先生がお話しておりました様に、この25年間と言う物はです、人間生身の事であるから何処に御粗末ご無礼があるじゃら分らない。そういう中におすがり願って行くのであるから、言わば、下から上へ水を流す程の難しさであったけれども、是からは、上から下へ水を流すように、言うならば、人力の限りを尽くして来た20年であるならば、ここに人力を捨て切って、そして神力一途、言うならば、他力本願一如の信心に私共がね、展開を見せて行く。
 そこからです、人力を持ってすれば是だけの事。けれども神様が働き下さると言う。人間の一握りでは是だけだけれども、神様の一握りは限りがないと言われる、その限りのない世界が是から開けて行くのだ。合楽の言うなら信心が世の中に宣伝されてね、合楽を見よ、合楽に御神縁を頂いておる人達のおかげを頂いておる姿を見よ。と言わば言えれる時期に到来しておると言う事であります。そこで改めてお互いが、正義先生が申しております様に、本当に言われて見ればね。
 健康でお金に不自由する事もなく、平和円満でと云う程しのおかげを頂いておるのであるから、本当にそこに極楽を感じたならばです、その極楽を感じておる心を人に伝えて行かなければならない。宣伝して行かなければならない。そう云う責任を感ずる所のおかげになって行かなければならないと言う事なんです。世界の将来を思えば思うほど、只今の様な人間のいわば生き方で良いのか。人間のその行くてと言う物がです、間違えのない方向へはっきりと姿勢を変えて行かなければならない。
 そしてそれを、25年がかりで頂いた一つの小さいサンプルである。所謂見本である。こう云うおかげが愈々頂けれる世界をです、皆にも聞いてももらおう、見てももらおう。先ほど丁度秋山さんが、先日からもういわゆる四・五日なりますか、ここのお月次祭の帰りに自動車が追突された。北野の警察官の人であった。大変運転の名人で事故ども起こした事がないんだそうですけれども、後で実感して話されるのに。
 私はあの時はどうかしとった。実は家内が入院をさして頂いて、もう大変な難儀な病気をしておる。もうそれこそ大小便は出っぱなしである。そこにね実はおしめを持って行きました。そしてまあ言うならば、なんと難儀な事になっただろうかと、思い思い運転をしておりましたら、ついそこに車が止まっておる事も分っておりながらです、言わば追突してしまいました。実はこんな訳でしたと言うて、警察官がその実情を話された。やあそげなん事でしたか。
 実は私達は金光様一家中でのお月次祭へのお参りの帰りでしたが、今合楽ではどの様なおかげでも頂かれております。これもやっぱご縁ですよ。ですから奥さんの事は私がお願いを致しますからと言うて、もちろんそこで話し合いが実にスムーズに行きましたが。それからおかげを頂かれる様になって一両日目にはです、お食事いただかれないお食事が頂かれる様になり自分で起きられる様になり、今日はねもう散歩をする様になりと云うおかげを頂いておる。
 だから是非私は、今度の来月三日にお礼に出たいから、あの連れて行ってくれと、お供え物を持ってその今日はお礼に、申し上げてくれと言う、こう云うおかげを頂いておると。そして実は、こう言う様な実は難儀な問題が、私は持っとるがこの事でもう願いはしては良いでしょうかっち言われる。そんならもう尚更の事、お参りをしてお取次ぎを頂いておかげを頂いて下さいと言うて、ただ今ありました様に。
 もう神様が宣伝をしようという気になったら、せねばおられない雰囲気をその周囲に、それは自動車から追突を受けたという難儀な問題の中にもです、そこにね追突された者も助かるならば、追突した者もまた助かって行くと言う様な道を神様が開いて下さる。こう云う生き方を、こう云うおかげの表れ方をです、それこそ神がね、道を開くとおうせられる。高い所から、低い所へ水を流すというのは、そういうおかげの事ではなかろうか。最近言うなら、日々です、合楽では奇跡が続節しております。
 昨日熊本の富永先生が、今月に入って親先生、もう私の方では奇跡の連続で御座います。そしてここで改めて、御理解を頂いて、成程そうもあろうと思いました。今合楽でこういう転換期に当たっておる。しかもその為には、分らせる者には分らせなければならない為に、こういう奇跡が起こっておると言う。それは私共の様な関係教会である所の、日奈久の教会に迄それが現れております。近所近隣の教会が唯ただ、たまがっとると言うてお話をなさっておられます。
 ですからここに縁のある限りの言うなら、ここの出社でもないのですけれども、合楽の信心によって、おかげの助かったと言う、教会のお広前の上にもその様なおかげが立ち現れておると、言う事で御座います。私共が眼をです、もちっとね、言うならば大きいところに向けて、そして言うならば、人間の行くてと言う物をです、間違えないところにおいて、そして、それに向かって一歩ずつ前進して行く為にはまず、私の心の中に合楽を開かなければならない。
 親が子供にお礼を言うた。もう何と素晴らしい事だろう。親と子が拝み合えれるという世界。夫婦が拝み合えれるという世界ね。私昨夜父のご祈念の姿を見てです、今までかつて父の姿の中から、そう言う物を見た事、感じた事御座いませんでしたけれども、昨日ばかりは、本当に私は父にお礼を申し上げる心で御座いました。愈々来月の16日が、夏の大祈願祭になります。最近夏の祈願祭と6月の30日の昔大祓い式と言っておった祈願祭との区別をはっきり最近頂いております。
 6月の30日の祈願祭がまもる、言うならば大祭であるならば、8月の16日の夏期祈願大祭は、せめる祈願のお祭りだとね。6月の大祭がですどうぞ、悪い病気からお守り下さい。交通事故などが無い様に、どうぞご守護下さいという、所謂守る所の御大祭。夏の祈願の大祭というのは、ね、諸事大繁盛のおおみかげを願う、五穀豊穣を願う、言わばお祭りです。是は攻めるお祭りです。ですからそういう願いと言う物の焦点をです、私世界の将来を思いそして人間の行くての間違えない所を把握さしてもらい。
 そして願いと言う物は、その為にはどうぞ健康のおかげも頂かせて下さい、家庭円満のおかげも頂かせて下さい。愈々家繁盛子孫繁盛のおおみかげも頂かせて下さいと言う事になるので御座います。そういう祈りを込めさせて頂く所の御大祭が16日目の、16日ですね。所謂にあるので御座いますから、最近言われておる、それこそ合楽を宣伝する。一人が10名の信者に宣伝する。宣伝したけれども半分しかお参りがなかっても良いのです。3人でも良いのですね。今の合楽でです。
 一人が3人の人をお導きしてお会いが出来たらです、おそらくはあの新館も立錐の余地もない程しになる、おかげを頂くだろうと思います。合楽を宣伝するそれはもう、嘘もなければ偽りもない。もう正真正味これを見て下さいと言う物を合楽に、言うならば樹立した。そしてです言うならば、自力の信心からです、神様のおかげで開かせてもらうと言う他力の信心に移った所にはです、もう指一本で指すだけでも、言うならば、非難される所がない程しの物に、言うならばやや完璧と言う所の信心に立ち。
 立ったころからこそ、神様が合楽宣伝に乗り出して下さったんだと思うのです。その乗り出された所のお互い船に乗らなければならない。今まで馬鹿とアホで、もう本当に、もうこれ一つでね、一切がおかげになると先日頂きました。蚊取り線香になる事だ。これに火が付いておれば煩わしい物はなくなるんだと。所がです、私共はその内容と言う物を頂き違えとる。ただもう私が馬鹿になっときゃあよかと言う事ではないのだと。今朝から私は改めて頂いて、まあ本当に素晴らしい事だな。
 こういう時にあたってここを頂いたと言う事は有り難い事だと言うてまあ皆さんと話し合った事です。打ち向かう者には負けて、時節に任せと。打ち向かえば自分が負けるんだと。喧嘩をすれば自分が負けるから私が馬鹿になっておくというのは、馬鹿になっとるのじゃないと言う事ですね。今まではそこも一緒に、私が馬鹿にさえなっときゃあ、家の嫁ごはとても強いから、言うとも私が一言言うと三言も四言も言う。だからばばさんの私がじっと黙っときゃあよかと。
 私が馬鹿にさえと言う物をです、それを言うならば馬鹿とアホと思うておった。そうじゃない。その嫁よりも私が力を頂いておる。言うならば喧嘩をすれば私が勝てれる。その勝てれるけれどもじっと負けておれれるゆとりこそが、本当の意味においての馬鹿アホだ。打ち向かう者には負けて時節に任せと言う、待てと云う事はそういう時節を待ってからでなかならければ、自他とまでの本当の助かりは繋がって行かないと言う事なんです。もう私は本当に、あの大発見のおかげを頂いた思いが致しました。
 そこでですそんなら、私が馬鹿になっとけば良いと言うのではなくてです、そこに自分の力不足を感じさしてもろうて、自分の力のない事を思うた。それに対する力の受けて行く精進がなされて行かなければならない。そして同時にです心が力を受ける。私は今日ある方のお届けをさしてもらってその人の顔を見たらなんか涙が流れてしようがなかった。男として主人として、こういう侮辱があるだろうか。と言う様な言う所に立ち到っておる方なんです。昨日その実情を色々お届けされた。
 今日もその事はもう、言われよると思ってから、○○さんもう言いなさいますなって、その事はもう神様がご承知なんだ。だからね、○○さんあなたに大きゅうなれ大きゅうなれと神様が言いよんなさる所だ、力を受けよと言いよんなさる所だから力を受けなさい。そしてそれをあなたが許せる様になったらかえって素晴らしい事になるだろうと言うてお話をしたんですけれども。その方の顔を見よったらこっちの方が泣けて来る様な気がする。そういう時を私は修行というのではなかろうかとこう思うのですね。
 そういう時に愈々元気な心を頂かなければならない時だと思います。そういう時に愈々人間の幸せを焦点としての、例えば行くてと言う物をどこに置かなければ行けないかと言う事をはっきり把握してね、世界の将来をうち目指して頂いて、世界真の平和を祈らしてもらう。その祈りがです、一歩一歩それに近付いて行けれると言う事は、先ずは私がおかげを受けて、家族の者がおかげを受けて、自分の周辺に宣伝をして行って、その宣伝に皆さんが聞いて下さり、助かって下さるという。
 言うならばそこから、世界平和と言う物はあるのである、と言う事を思わなければなりませ ただ、大きく広くと言う事ばかり言うても、先ずはね手近な所から助かって行くという信心。それには先ずは、私自身が助からなければならないと言う事で御座います。もうおそらく、あちらの方へ準備も出来た事で御座いましょうから、どうぞね、お蕎麦を頂きながらね、どういうおかげを持って、おかげがそばだと私が言うて下さるであろうかと言うことをです。
 今日何人か方から、もう成就と同時におかげを頂いたというお届けが御座いました。と言う様にですそういうおかげが成就してまいります。その成就をです、ただ私の極楽に止まらずに、合楽になって行く。神様が喜んで下さる働きになって行く。いよいよ五つの願いが成就のことに対しておかげをこうむって行かなければならんと思うので御座います。もう本当に1日私はここで皆さんのもう一生懸命の御祈念信行を、ですからいわゆる火や水の行はもう卒業した。
 もういやそう言う物があって良かろう筈がない。先程正教君が言ってました様にね。お釈迦様は難行苦行の後にね6年の後にね、これでは自分は助かっても、人は助からないと言う事を悟られて、菩提樹の下で大きな悟りを開かれたと言う様に、合楽は25年間かかったんです。こういう素晴らしいだから開き方の中に、私共が便乗さしてもらわなかったら、それこそ神様に対しても相済まん事になるのですからね。
   どうぞ。